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金精軒とは ABOUT US / COMPANY's STORY

細く長く120年。
小さなお菓子屋、
金精軒

明治35年、甲州街道 41番目の宿場町として栄えた台ヶ原宿の旅籠が、菓子店となって金精軒の歴史は始まりました。
小さな小さなお菓子屋が、120年経った現在でも続いているのは、当時から変わらぬ、尾白川の名水や地元の自然があったから。豊かな自然に感謝し、自然を活かす伝統的な製法のお菓子造りは、素朴な味わいと手造りの温かみのあるお菓子を生み出します。その味を、地域の皆さまが支えてくださっているおかげで、今日もお菓子を造ることができるのです。

創業期

恵まれた自然あふれる
生まれ故郷で創業

甲府市太田町に在る金精軒本店からのれん分けを得て、台ヶ原宿に和菓子屋を創業しました。創業者の小野小源太は、現在の武川町三吹生まれ。そのため近隣の台ケ原は、事業の創業にはうってつけの場所でした。生まれ育った土地を愛し、地元の自然をよく知る小野小源太は、故郷の水、味、歴史をお菓子で表現しようと試行錯誤していました。そんなお菓子の一つ、創業以来、隠れた人気の「きんつば」は、地域の皆さまに長年支持されておりますが、あえて宣伝はしておりません。

昭和中期

日本中が貧しかった
戦後からの発展

終戦後、日本中が貧しく物資が不足している中、白州地域の豊かな自然は、私たちがお菓子造りを続けていく勇気や希望となりました。少しでも地域の皆さまのお役に立ちたいと、昭和24年に有限会社として法人組織を設立。その後、日本は高度経済成長期に入り、深刻な環境汚染が始まりました。水質汚染による公害はきれいな水の価値を高め、白州地域の豊かな水資源が注目され始めました。創業時から変わらぬ、故郷の水とその水で育った素材を使った手造りの素朴なお菓子が受け入れられ、昭和49年には金精軒製菓株式会社として、現在の組織に改組しました。

発展期

人と土地をつなげる
幸せのお菓子

平成に入り、金精軒韮崎店を開業し、新工場を設立。ISO 9001とISO 14001を取得し、より安全で安心なお菓子造りに力を入れています。また通算10回の特Aを獲得した「梨北米」や、生信玄餅で使用している北杜市産の大豆で造ったきな粉など、地元の食材をお菓子に取り入れることで、故郷の味を少しでも知ってもらい、興味を持ってもらえるよう努力しています。現在、金精軒では、NPO法人えがおつなげてと共に青大豆の栽培に取り組み、毎年10月の収穫後には、自家焙煎、自家挽きのきな粉を、水信玄餅につけて提供しています。今後も、お菓子に使用する原材料等、地元農家と協力して、積極的に取り組んでいきます。

会社概要

商号 金精軒製菓株式会社
設立年 創業 明治35年
法人改組 昭和24年10月1日有限会社設立
昭和49年1月30日株式会社に組織変更
所在地  
本社・台ケ原店 〒408-0312 山梨県北杜市白州町台ヶ原2211番地
TEL 0551-35-2246 FAX 0551-35-3020
白州工場 〒408-0312 山梨県北杜市白州町台ヶ原2211番地
白州第2工場 〒408-0312 山梨県北杜市白州町台ヶ原433番地
韮崎営業所・工場 〒407-0261 山梨県韮崎市中田町小田川154番地
金精軒韮崎店 〒407-0261 山梨県韮崎市中田町小田川154番地
kinseiken甲府駅前店 〒400-0031 山梨県甲府市丸の内1丁目 甲府駅改札外
   
資本金 5,000万円
代表者 代表取締役 小野光一
事業内容  
本社・台ケ原店・白州工場 信玄餅を中心とする菓子類の製造と販売
白州第2工場 信玄餅の製造
韮崎営業所・工場 信玄餅の製品化と信玄餅を中心とする菓子類の卸販売
金精軒韮崎店・
kinseiken甲府駅前店
菓子類の販売
年商 8億9600万円
従業員数 100人(令和4年5月末時点)

経営理念

お菓子は「慈愛」。
人と人の楽しさや幸せのなかにあって、
多くの方に喜んでいただける。
心を込め、やさしさに溢れ、
勝ち負けを競わず、幸せだけを求めて。
感謝を形にしたお菓子を造りたい。

ごあいさつ

初代小野小源太が台ケ原のこの地に菓子屋を創業してから120年という年月を数えることとなりました。その歴史は順風満帆とは云いがたいものだと思っています。

創業より22年後の大正13年、初代小源太は44歳で病没しその妻そのゐ(い)は二男五女をかかえ、女手一つで菓子屋を切り盛りしました。長男の一雄は真面目な勉強家で良く母を助け、金平糖の製造機械の設計図面を書き鍛冶屋に付きっきりで機械を完成させたと聞いています。電力もまともでない時代でしたから動力は水車、その後電力を得てモーターで稼働したそうです。昭和9年事故により27歳で亡くなりました。その時次男の敏明は24歳で三代目となったわけです。昭和18年の太平洋戦争真っただ中に敏明が32歳で招集され残された一家は女ばかり、物資もなく家業は空白の状態であったと聞きます。昭和21年敏明は無事に復員したものの母のそのゐは終戦の年の12月に59歳で亡くなっていました。敏明は日野春駅から復員の道で行き会う人に金精軒の母は生きているかを聞いたそうです。最後の人から「昨年亡くなった」と聞かされ真っ先にお墓を訪ねたら真新しい土(ど)饅頭(まんじゅう)がありしばし泣き崩れたと聞きました。このころが創業から50年です。

よくよく振り返ってみるとこんな田舎で企業が良く生き残ってきたものだとつくづく感じます。
これも地域の皆様より金精軒が支えて頂いたからこそ今があるものと感謝申し上げる次第でございます。創業以来、働き支えて頂いた多くの社員の皆様本当にありがとうございました。地域の皆様本当にありがとうございます。金精軒は今後も地域に元気を発信してまいります。

四代目 小野光一